祈りPrayer

これまでと、これからの
歴史を紡ぐ

聖徳太子により建立されたと伝えられている当寺の歴史は古く、
その千年以上にも及ぶ変遷を詳らかに明かしていくことは困難を極めています。
しかし先達の遺した足跡や由緒をたどり、語り継ぎ、
今の私たちができることをまた未来へと紡いでいくことはできるでしょう。

厩戸皇子(のちの聖徳太子)の
祈りが込められた、各地の四天王寺

用明天皇2年(587年)、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏は、互いの軍勢をもって雌雄を決することになりました。蘇我氏に参入していた厩戸皇子(聖徳太子)は、若干15歳でありながら、仏の加護を得るために自陣近くに四天王像を刻んで戦勝を祈願したといわれています。
これが後押しとなり、蘇我軍は物部軍を撃破。6年後、推古天皇の摂取になった厩戸皇子は、日本各地に4つの四天王寺を建立しました。そのうちの一つが当寺・塔世山四天王寺です。
奈良、平安時代と仏教は隆盛を極め、当寺の本尊である薬師如来坐像もこの時期(平安後期)につくられました。この時代ならではの穏やかなお顔立ちが、人々の心に何かを語りかけているようです。
やがて鎌倉、室町時代に移行するにつれ、世は激動の戦乱期に。人々のあいだには厭世観が漂い始め、仏への救世の気運は高まりました。当寺においても、荘園権力者らの争いに巻き込まれたり、1565年に起こった伊勢の騒乱により寺のほとんどが焼失したりと、衰退が極みに達した時代でもありました。
戦国期になり、一時は織田信長の弟・信包により寺領が寄進されたことをうけ、中興の時期もありましたが、1600年の関ヶ原の戦いでは前線基地としての役割をしたため、再び荒廃の一途をたどりました。

太平の世・江戸と近代における
寺の在り方の変容

幾度となく窮地に立たされてきましたが、江戸時代に入り藤堂高虎が津城の城主として入ると、町の仕組みや農政改革、津城周辺の整備などを行うととともに、伊勢街道の要所に位置した当寺も厚く庇護されるようになりました。参勤交代の行列が通り、伊勢参りの参拝客や商人たちが行きかい、当時はとても賑わっていたと記録に残っています。やがて高虎の正室である久芳院が元和2年に亡くなると当山で弔ったり、第2代藩主の藤堂高次の命により山門が築造されたりすると、当寺はようやく隆盛の兆しを見せ始めました。今も現存するこの山門は、市有形文化財にも指定されています。
太平の江戸時代が終焉を迎え、明治時代に突入すると、神仏習合を禁止する動きが出てきました。廃仏毀釈運動や廃藩置県など、あらゆる新制度の波にのまれ、堂内の伽藍もみるみるうちに朽ちていったそうです。やがて当山に転住された47世・鈴木天山禅師は、そののち35年もの在職期間を全て費やし、堂塔伽藍復興のために奔走されたのです。このご尽力により伽藍は徐々に改修され、阿弥陀如来坐像や大日如来坐像などの平安仏も改めて安置されました。
しかしその後、昭和期の大戦争により津・四日市市周辺は火の海と化してしまいました。多くの犠牲者を出し、当寺もほとんどが焼け野原になるというあまりにもむごい状況になってしまったのです。
戦後は、生活に困窮する女性の駆け込み寺としてや、子どもたちに対する教育の場など、時代の変遷とともに社会的弱者を守る立場として変容を遂げてきました。

先行きの不透明な時代だからこそ、
原点回帰を

千年以上の歴史の中で、当山は幾度となく衰退と復興を繰り返してきました。その中で、今禅宗の根源に立ち返るべき時だと思っています。奇しくも2021年は聖徳太子の没後1400年にあたる年。今一度社会全体を見直し、心の救済を必要とする新たな取り組みが求められていると感じています。
新型ウィルスの流行により、人々の交わりや社会・経済の動きは先行き不透明です。縁も希薄になりつつあるこの現代社会において、当山はより開けた場であるべきだと考えます。伊勢参拝ツアーや、海産物のグルメツアーの一環としてお参りをしていただくなど、観光色を新たに打ち出していくことで、アジアなど世界各国に日本文化の魅力を発信していけたらと思っています。
しかし、地域のみなさまのお力添えがあってこその当寺です。そのためには、今後の取り組みが地域のみなさまや子どもたちの行く末に還元されていくような「仕組みづくり」から始めなくてはならないのかもしれません。
まだまだ未完成の部分が多い四天王寺ではありますが、みなさまの憩いの場として、自分を見つめ直すきっかけの場として、魅力を発信していく場として邁進していく所存です。今後とも、温かい目で見守っていただけますようお願い申し上げます。

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