1000年の歴史 -聖徳太子建立-
本寺は塔世山四天王寺と称し、曹洞宗の中本山です。推古天皇の勅願であり、聖徳太子の建立と伝えられています。
用明天皇の時、聖徳太子は守屋大連の軍に三度も敗れました。そこで太子は四天王尊像を刻み、「もし我が勝利を得れば、寺塔建立するから勝利を与えてほしい」との誓願をたてました。
その結果、守屋の軍をやぶることができたため、誓願どおり建立した四つの四天王寺を建立しました。その一つが、本寺であるとされています。
近年、境内から奈良時代の古瓦が出土され、建立されたのは7世紀頃という説もありますが、いずれにせよ1000年以上の歴史があり、平安時代ではこの地方で最も繁栄した寺院でした。
藤堂高虎ゆかりの寺
その後、度々の兵乱や戦火で焼失と再興を繰り返しましたが、元和5年(1619年)に津城に入国した藤堂高虎が改築、二代目藩主高次が寛永14年(1637年)に寺領を寄進したことにより、寺勢をとりもどしました。
現在の本堂は、太平洋戦争で焼失後、五十二世定行代に托鉢行にて再建されたものであり、市内有数の大きな寺院の一つとなっております。
また境内には、信長生母、藤堂高虎夫人をはじめとした武将や学者、文人たちの墓や芭蕉文塚ほか、文学碑など貴重な文化財が多く残されています。
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白竜天山(1863-1941)
明治20年(1887)、25歳の時に四天王寺の47代住職として35年間在職しました。この間、永平寺後堂、同監院等を歴任しました。
その後大正11年福井県 慶寺の住職、昭和7年韓国ソウルの博文寺初代住職を経て、昭和10年曹洞宗管長に就き、昭和15年77歳の時大本山総持寺の貫首、翌年5月大本山永平寺の69代貫首となりました。皇室より「密伝慈性禅師」を賜っています。
「坐禅」という陰徳を行ず
言い逃れはやめて まず やれることを
こつこつやることだ
こつこつと一行に生きる人は
いきいきと 輝く人だ
曹洞宗の開祖、道元禅師は種々な修行の中で特に大変な労苦を伴なう台所(典座)の修行を重んぜられた方です。
それは単純に肉体的な苦労だけでなく、心配りという精神的なことも伴います。
どうしても自分を評価されたいという人間のたかぶりを打ち砕いてしまう「陰徳」という言葉に帰一するのです。
「喜心」「老心」「大心」という「典座の三心」は、決して坐する時だけの坐禅でなく、「往住坐臥」人間の行動すべてに禅の心があるとみる訳です。
黙々として陰徳を行じ、方便を絶して皆さんの仕事に至心に打ち込むことこそ坐禅の当体といえます。皆さんの方の進一歩を期待しています。 |
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